2007/12
蘭学者 大槻玄沢君川 治



大槻玄沢の芝蘭堂は緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、華岡青洲の春林軒と並んで当時の名門校であり、入門した塾生の出身地をみると北は津軽藩・南部藩から南は長州藩まで全国各地から学生が集まっている。特待生制度は無く、かなり高額の入門費を決められており藩の後ろ盾が無いと難しかった。
 江戸蘭学の中心人物、大槻玄沢は杉田玄白の天真楼に入門して蘭学を学び、長崎に2回遊学して医学だけでなく博物、地理など幅広く知識を修得した。今年が生誕250年で、出身地の一関博物館で展示会「GENTAKU〜近代科学の扉を開いた人〜」が開催された。
 JR一関駅を出ると正面に「大槻三賢人像」がある。大槻玄沢と息子で儒学者大槻磐渓、孫で国文学者の大槻文彦である。一関は仙台藩の支藩で城下町の趣が少し残っており、駅前通は「先賢の路」と名付けられて郷土出身の偉人たちの説明碑が建っている。
 一関博物館は市内からバスで約30分離れた磐井川の河畔名勝厳美渓にあり、丁度紅葉が色づいて美しい渓谷美であった。展示品は大槻玄沢の翻訳本や著作類・書状のほか、杉田玄白、山村才助、馬場佐十郎、稲村三伯、宇田川玄真など師匠、同僚、弟子たちに関するもの、肖像画や掛け軸、人体模型まで豊富な品揃えで非常に見ごたえのある展示会であった。
 大槻玄沢は一関藩の藩医の長男として1757年に生まれ、優れた郷土の医者で藩医の建部清庵について学んだ。清庵は江戸の蘭学者杉田玄白と親交があり、玄沢は清庵の息子と共に杉田玄白の下で蘭学を学ぶことを命ぜられた。
 江戸に出た大槻玄沢は杉田玄白、前野良沢に蘭方医学やオランダ語を学び一関藩医に登用されて長崎に遊学した。長崎ではオランダ通詞で外科医でもある吉雄耕牛や本木良永に、医学以外にも西洋の学問の手ほどきを受け、玄沢は杉田玄白にとって頼りになる弟子であった。
 玄白は「解体新書」が不完全な翻訳であると知っており、オランダ語に秀でた玄沢に、ターヘルアナトミアを再度翻訳して「解体新書」の改訂版の作成を依頼した。玄沢は他の外科書なども参考にし、更に玄白や良沢が翻訳しなかった上級者むけの脚注を翻訳して加え10年かけて「重訂解体新書」を作成した。
 江戸の蘭学には幕府天文方の高橋景保を中心とする天文・暦学系統と大槻玄沢を中心とする医学・本草学系統がある。玄沢は日本橋水谷町に私塾芝蘭堂を開いて後進の指導に当たると共に幕府の漢方医学所や昌平坂学問所に対抗する蘭学者の旗頭であった。
 博物館の展示品の中に西洋人の肖像画の掛け軸がある。玄沢がターヘルアナトミアの脚注から見つけた西洋医学の医聖ヒポクラテスを描かせたもので、この軸を床の間に掛けて蘭学者たちがオランダ正月を祝う芝蘭堂新元会の図も見ることができた。
 この芝蘭堂新元会にはロシアに漂流してロシア皇帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を許された大黒屋光大夫も参加しており、この新年会は漢学者に対するデモンストレーションであった。当時の日本の暦は太陰暦であったがオランダ正月は太陽暦の正月であり、流石に蘭学者たちの先見の明も知れるといえよう。
 一関の大槻玄沢生誕の地に行ってみた。一関教育委員会の設置した説明板は柱の塗装が剥げ落ちて錆びてしまった粗末なもので邸宅跡も雑草が生えており寂しくなったが、郊外の菩提寺龍澤寺にある一関医師会建立の「大槻玄沢顕彰碑」は立派だったのでホッとして戻ることができた。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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